昭和46年02月10日 月次祭
信心のある者とない者は親のある子と無い子程違うと。信心のある者とない者は親のある子と無い子程違う。ただ今「しげお」さんがむつのこでてきたここで、まぁあのうお礼に出てきておりましたけれども。北九州の方へ縁のついておられる、娘さんがありますがそのお子さんで、また「しげお」さんには孫にあたられる訳で、今日はお礼参拝をして来ているんです。
というのは、真実、基後ろの教会になりましょうか、夕方まだもしくは5時頃だったでしょうか、「しげお」さんが参拝してまいりましたから。いつもの時間とは違いますから、今日はどうしたのですかと言うたら、今日はあんた、実はと言うてお話、お届けになったんですけれども。今「とし子」のところから電話が掛って参りました。ほいであなた聞きましたら、お名前はよしたろうという。この人はほんならよ、神様から言わしたらです。麗しの太郎と言う。麗し太郎が、そのういなくなったと言う。
いくら探してもおらんから、神様にお願いをしてくれとこう言うて来られました。もうそれを受話器を受けたおばあちゃんはもう、それから足がガタガタガタガタ震えだして、ですね此の方、太郎さんが可愛らしいからもうあっちこっちからその、引っ張りだこだそうですよね。何処へ連れて行っとろうが。だからその誘拐でもされとらんか、その(笑い)ね、親の心配なのです。それを聞いたおばあちゃんが足がガクガクすること。
すぐ合楽に電話をかけようと言うてかけたけれど、まあその日に限って出ないのじゃなくて、やっぱちっとあがっておられたんでしょう、おじいちゃんもね。それでもとにかく、電話をこげんって切っちからもう(もうにあい)をしてからね、障子の方へ一番(うちみだあっと)こうお届けしてからね、して「よしたろう」がのうなりました、「よしたろう」がのうなりましたちゅうので。
だけん(笑い)(かないたまあった)あのう「きみ子」さんの「よしとみ」さんが死になさったと思うちから、もうびっくりしてですね、そしてもう(つるつるどろうといきでたら)親先生、親先生ちゅうから、親先生、北の、あの「くが」君がですよ、言ったらその後です。私もそげん言うちから「よしたろう」がどうなりましたと言いなるですもん、(笑い)ちょっとまあ、あんたのなったってどげなふうにのうなったとね、ちゅうたら(笑い)まあ、おらんごとなったっちゅうらしいんですよ。
それからね、私神様にそのお届けを、まあさせて頂いたんですけれども、そしたらあのう、1月のかいあのう(せんがいさん)のカレンダー(いよいよっちゃんの)カレンダーを頂いとりました。それが今年は亥の年ですから1月のところにこう、猪ね、大体四足ですけど二本足でこう立ってるところを頂きましてね。ですからね、例えてあれがこういつまぁでも立ってる訳ありませんよね。
ですから必ずすぐ足がつくと言う事なんですね、だからそれを言おうとしとったのと、あちらから電話が掛かってからおりましたというて、電話掛かって来るのが一緒でしたね。私今この子がここへ来てから、ああおじいちゃんと一緒にお届けをさしてもらいます瞬間にですね、あれは誰の句だったでしょうかね、とんぼ釣りどこまで追って行ったってやらと言った様な句がありますよね。とんぼ釣りにいった子供がそのまま帰って来ないと言うんですよね。
何か事故か何かに遭ったと言うのです。その事を頂くんです。今その事を立ってから御礼申させて頂いてもしきりとその事ばかりを頂くんです。本当に信心のある者とない者は親のある子と無い子ほど違うと、と言う所がねその様な所にも現れてくる。それはもう定めである、運命だと言えばそれまでの事。けれども信心させて頂いておりますとね、そこから例えばもう、駄目だと言う所から間違いないかと、新たな運命がそこから生まれておるね。運命を愛すると言う事はね。運命を生かす事だと。
これは幹三郎が入院中に今の磯崎に帰って来やった言葉でありました。現在のそれは喜ばしてくれそうにない世の中におりましてもね、そこを喜ばせて頂くと言う事が信心なんだと。そこを受け方次第ではね、改まりの運命がそこから生まれて来るとこう言うんです。信心のある者と無い者はそこから違うてくるのですね。おかげを頂いてから何か一つのこの派出所でこぐろうてくる。電話が掛って来た。最近住宅の方も変わっておられますから、8:00に出てからけんとう違いしたんでしょうかね。
きっと今日はお祭り前に、それを野崎先生が、前講を勤めておりました。真実と言う事はね、どのような中にあってもそれを喜べれる。それは私自身の生き方が神様からご覧になったら間違いだらけであろうともね、また自分で深く反省すると、間違っておっても気付かない、そのような事がいわゆる間違いの元になって、例えば人間関係の場合なんかは、今日その人間関係の事を言っておりましたがね。誤解を招く元になって問題が起きておる。その問題を聞かせて頂いておる内にです。
心の底に何かこう、笑いがこみ上げて来る思いだったと言うと、いやそれは段々気の毒だな可愛そうだなあと思える様になったと言う。そしてその人の事を祈らなければ終われない、そして真実とはね、こういう世の中にあっても、その相手のその事が祈れれると言う事が真実だと思うと言われる事をお話しておりましたのを聞かせて頂いてね、私は今朝からの御理解に通ずるものがありますので、んなら有り難いなあと思うね。「おかげは和賀心にあり」と。
生神金光大神 天地金乃神一心に願え」「おかげは和賀心にあり」と教えて下さるが、おかげを頂くというその和賀心の「和」というのはこれは今日は新たな、あぁ解釈でしたですね、今の今日の御理解を頂いたのは。和賀心の「和」とはね、どの世の中に入って行ってもおしておる心だと言うんです。私が穏やかである心が、有り難い信心しとるけんありがたいという、その有り難いのが何か自分の都合の悪かったり困ったり、損になったりする事が起きてくると今まで穏やかであったその心がもう濁ってくるね。
もう波立ってくる。これは普通で言う「和」ではあろうけれども教祖の仰る所の「和」ではないのだと、教祖が仰る「和」というのはどの世の中に入って行ってもそこに自分の心が乱れないで済むという心をもって「和」といういうのだと。それを例えば、野崎先生が今日それを真実だとこう言っておった。それは本当の事が分かると言う事ね、本当の事が分かる、信心する者は肉眼をおいて心眼を開けと仰せられるね。肉眼をもってすると、このどうして横着なやつじゃろうかとか、そんな事はあるもんかとかね。
腹が立ってとこう思うんだけれども、その問題をです、なら肉眼をおいて心眼をもって見るとです、それは親にも申し上げられなければおられない事であり、その相手の事が祈らずにはおられない心になってくるのです。それが「和」なのだと、それを多分先生が言っておったと思うんです。その御理解を先生頂いておるはずありませんけれども、何とはなしに繋がっておるなあというのを感じた。私はここに立たせて頂いて何か、私側で聞かせて聞こえませんもん。
ただここの鼻に来たのをここってすすってから言いよるけん、よほどそしたら笑い出しから何か話しよりますとか、久富繁雄さならん所からじっとこう聞こえなかった。私の上にはどげん聞こえたかっちゅうと「久富しげお」のお夢を頂きましたっちゅうのが聞こえた。そして「久富繁雄」さんが「正義」さんあんたん所は鼻に髭ば剃らんのっち(笑い)、言いよると言うてその、話しておる様に聞こえたんです(笑い)。
はあそりゃもう良きところ、まあそれは夢の中で神様が教えて下さったなあと私が思いよりましたら、実はそうじゃなかったと言うんです。さっき聞いたら(笑い)。私はまた、「繁雄」さんが野崎さんがあんたにした事を話した事で嫌いになった。髭を剃らんのと言うて、そのお夢の中で「繁雄」さんに言われたと、それを言うて笑いよると思うた。ところが実はそうではなかったらしいね。
明日の月次祭には野崎さん、あんたがお話をせんのと、そのお夢の中で「繁雄」さんから言われておりましたから、今日はここに立ちましたと言うておったと、だそうです実際。ところが私、聞こえなかった。今日大体他の人がお話する事になってたけど、言うておりませんでしたから、どうか小話をしてくれって言って言いよりましたら、松崎さんはすぐ立ちました。なるほどお夢の中でね、明日はあんたがお話せんのっちゅうてか言われとったから、まあすぐ立った訳です。
そして只今申します真実、真実とはとそれは真実ではないけれどもとにかく信心とはですね、いよいよもっと本当のものをです、求めて行く事なのだと言う。そこでまあ私し今日聞き違いの所をほんのこつと思うてからですね(笑い)なら私は、野崎さんあんたがここに、話でもせらんのっち(笑い)言われたように聞こえたですから、まあそういうふうなところで一つ聞いて頂こうと思って。
鼻髭っちゅうのは、あれは慢心ちゅうお知らせなんだね。それを先生は初め、よしみや、あのう北野からお参りなっておられた時に、あらっちゃとても中々いいこのちょぼ髭、チャップリンごとある髭が生えてなさいました(笑い)。(うだんのじ)合楽はやがてはキリスト教の、キリストをやられた方ですからね。うん。いわゆる布教にまで、布教と言えば現代の名前上げと言うじゅらいな方だったんですからね。
所が一度合楽で御理解を頂かせて頂いてです、もうそれこそキリストも釈迦もね、この御教があったらね、と心の中に感じる所があった。それからあぁそれこそ改まって金光教の信心になって行かれた訳なんです。んで有り難い勿体無くないと言われます、もう大分有り難なってこられた時にはおかげと思うてから、「貞男」さんいっちゃ今度来る時にはあんたこん資料を取って来なさいとこう言うて(笑い)、はいっちからいったらお家帰ってから家内に相談した所が、パパそれだけはやめなさいちゅうたんよ(笑)。
けれども親先生が言うとったけんでっちから(笑い)、いや本当ですよ。あちらはやっぱあの外国ぐらいの人だからね、あのうパパ、ママって言われるんですよ。まあ今ごろパパはそげん珍しなかばってん二十何年前はちょっと珍しか。家内が主人に事をパパっちゅう(笑い)。パパそれだけはやめて下さい(笑い)ね、けれどもまあ親先生が言いはったけんちから、もう早速次の日にゃあ、もうそれこそ青々とここを殴られ(笑い)、座って見えておられましたね。
だからその何かこう、ちいと威張ったような感じがするわけですね、あん髭をたてておるという事は。そんなけれどもまあそんな事でございましたがね、今日は松崎さんが大体髭立てとるっちゅう意味で一つ聞いて頂いた(笑い)。今朝からでした、皆さんに聞いて頂いたんですけれどもね、今朝の御理解は「天が下に他人というはなきことぞ」という御理解でした。御神訓でした「天が下に他人というはなきことぞ」。黄なもなからなければ白も黒もない。神様の目からもご覧になれば一子同人なんだとね。
世の中の事をそれこそ、新聞又はあぁ荒事をテレビでね、見せて頂きますと、それこそ、難儀が満ち溢れておる。しかも悲しい事は骨肉相食む様な純情の、惟は今始まった事ではございませんでしょうけれどもね、そういう状態を親神様がご覧になったらどの様にか、お悲しみになる事であろう。私は東方信者を見てね「骨肉あい」と言う事を頂いた「骨肉あい」と言う事なんか言いませんよ「骨肉相食む」と言う様な事は言いますけれども。まあ肉親あいと頂かなかったからその肉親あいとは少し違うんでしょうね。
その「骨肉あい」と言う事を頂いて、今日教典を開かして頂きましたら「天が下に他人ということはなきことぞ」という御神訓を頂きましたからね、私は今日のいわゆる、この70年代という時代はもういよいよ和賀心時代に入ったんだと、いや和賀心時代にならなければならない事なのだとね、人間の知恵・力を持ってしてはもう言わば最高のもの。いく所まで行ったね、人間が言わば人間の知恵・力で月の世界に行けれるほどしの時代になったね。そしてそこに言っておる事はどう言う事かとね。
これほどしの事ができたけれども、言うなら幸福とは繋がらないとね。そこでこれから先は心の時代だと言う様に、まあ学者の方達が言うておると言う事であるけれども、心の世界と言うだけではいけない。結局教祖が教えられる和賀心時代でなからなければ人間の幸福に繋がらないね。食べ物がない着る物がないね、それで心だけが例えばもし豊かになったところでですね、それは本当の幸福とは言えない。
自分の心も穏やかなら、遂にはね、言うならば人間の幸福の一つの条件であるとこ所の健康も、又はあぁお金もね、物もね、いわゆる様々な健康の条件というのが足らなければ人間の幸福、幸福の条件と言う事は言えない。いくら心が立派であると豊かであると言うても貧乏しとったんでは幸福ではない。本当の意味においてね。変えられるものであっては、なおさら同じ事であるね。
そこで和賀心という心にはね、おかげがあると仰られるのだからね、この和賀心と私は今日のあそこを和賀心学というふうに申しましたですね。和賀心学というものがここにできて、その和賀心にならなければ人間の幸福にはなれないのだと言う事をです。学問的にも究明して、それを言わば世界中の人間氏子がですね、そこまでにはいけないにしても人間の幸福はここのところを極めて行く以外にはないんだと分かる所まででも、押し進め、広めていかなければならないね。
そこでです私共がそのおかげを頂いて、そのおかげの教えも勿論、けれどもそのおかげそのものもですね、引っさげて世界の市場に出そうとこう言うのですね。どんなに素晴らしい教理・教典がありましてもです、それにね、おかげが伴っていないならばそれは商品のふうにはならない。こういう心ならこういうおかげが頂かれる、しかも凄まじいまでのこの様な幸せの働きというものを受ける事が出来るんだ、無限の供給を受ける事ができるんだ、というものをですね。
その見本というものを持って世界の市場に臨もうと、世界中の人間が粉もなければキナもない、しわもない、皆も人間がね、助かって行くという事を持って神の大願だと私は今朝からありよる。神の大きな願いはそれなんだ。それは悲願とまでなっておる。悲しいまでに神様は氏子信心してどうぞおかげを受けてくれよと言うておられるのだとね。ですからね、私共がねね、私共がおかげを頂くというその事ではなくてね、その私共が頂くそのおかげがですね。
世界の市場にも出せれるもの、言うなら世界の助かりに繋がるものでなからなければならいと言う事。今の教主金光様がね、去年のお正月でしたかね、元旦の放送をなさっておられますお言葉の中にも「自分の家の前をはわき清める」ね、自分の家の前をはわき清めると言う事が自分の家の前をはわき清めるではなくて、この自分の家の前の門口をはわかして頂くと言う事がそのままね、世界の清まりに繋がらなければならないと言う。世界日常が清まったんだという己でなからなければならないと言っておられます。
だからね思いを変えると言う事。所がね自分がたん面さえ綺麗になりゃあよかっちゅう事になりますとですね、もうよそにちらかっとったらもう問題なか事で、他所ん事はもうはいでもはわきゃと思ちから自分でだけ綺麗なってから、済ましておる人があるね、そう言う事ができなくなってくるね。けども他所の納屋までっちゅう事はいけませんけれども自分の家の、言わば門口をはわかして頂くでも、それが世界の一部が清まったんだと、いう思いではわかなければならんと言う様な事を仰っておられます。
私一人が助かったと言う事はね、世界の一部が助かったんだと、だからそれが世界の助かりに繋がっていかなければならないとね。そこにはもう人もなからなからなければ我もないね、他人もなからなければ身内もない。それを私は「神心」とこう申しますね、いわゆるマイホーム的なおかげではいけない、私だけがおかげを頂いていけばそれでよいという事ではいけないっちゅう。そして今朝私は、昨日一昨日のあぁ総代会に総代さん方に私がお話をした事を申しましたね。合楽の総代さん方ね。
合楽教会の総代としてならばもう言い分はなか。もうそれこそあなた方の生き方はもう言うならば、こういうのどこの教会でも見た事がない。朝の御祈念に皆揃うて参って来てね、信奉者ここの御用を頂いておる信者一同の事を願われる。今日は何々の行事があると言うてその事を願われる。それこそ一心の真を捧げて願われる。もうこげん教会長として心強い事はない、いままでかつてこういう事を聞いた事も見た事もなかった、他所の教会では。それがたまたまここの御造営が始まった。
あれから続けられて今日におよんでおる。もうこれだけでも、言わば合楽教会の言うならば名総代と言えれる、点数を言うなら高の上だと。けれどもね、合楽教会の言わば良い総代あってはならないね。あん人は道のためと言うけれど、私はもう道のためってそういうこっちゃないね。世界中の言わば人間氏子が助かって行く事にならなければならない、それはね、千年も万年も、いやもうそれよりももっと先にしこの、私が言うておる事がそうだと分かるような時代が来ると言う事は。
ひょっとすると来ないかも知れないけれども、それは自分の足元から一歩一歩でもです、これを広げて行かなければならない。梶原先生がこの迷鏡世界の国々まで広めたいと言っておられたがね、それをそのままそこに難儀な氏子が助かって行くと言う事に繋がる事なんだね、そういう意味合いでね言うとです。例えば今のあなた方の信心じゃだめだと私がまあその皆様方に申しました。合楽教会という意味においてならばそれは、もうとにかく、まあ名総代さん方ばっかりだとね。
思いを一歩ね、もう一つ合楽教会が本当の御比礼を頂くと言う事はそのままね、世界の御比礼に繋がるというもんでなからなければならない。と言う様な事を今日の御理解に申しましたから、今日は先ほど話が変わりますけどもね、菊栄会の会長であります政昭先生が今日話をさして頂いた。そして私は聞き違いに、政昭さんにちょっとこう下のとば剃らんのというふうに私は聞こえたから(笑い)ね、菊栄会の事を一つ話そうと思った。ですけれどね(笑い)それはもうほんとの事ですね。
合楽教会の総代さんが甲の十っちゅうなら、合楽教会の菊栄会は大甲の十位になります。ほんと一人一人を見て思います私は。うんけれども合楽教会では大甲の十であろうけれどもです、私が願いとするところの願いの意味合いにおいて、言うなら私の取り巻きと言うか手足になって下さる方達としては、そげな事じゃでけんと言う事だと。今朝から高橋さんがお届けされました。あれはもう今はもう、それこそ凄まじい、そのう修行に入っておられます。あん先生元気でご修行ができておられます。
そういう例えば本当に、言うなら教会の御用なら教会の御用に本当にもうそれこそ何時間も続いて打ち込んで御用に就いておられますね。それほどしの言うならば信心もできておられるのに神様はどういうふうに、あんたの信心はこんなもんだと言うて指摘しておられます。それがね、本当におもしろかった。高橋さんの同業者の方達の集いがあっておる、中に一人非常に細い人でですね、そしてそのう自分の都合の悪か事ばっかり主張してね、もう人の事なんか考えんて人がある。
もうためにその人が人からもう非常に嫌われるね。その人がね、高橋さんに、その男のいわゆるシンボルであるそれを出してね、あんたがっと太かとこんががつをくらべれよと言わしゃったと(笑い)ほいけんあんた尺持って来てから、ふたんに測りごとあるね(笑)それで高橋さん方は、あんた方こげんこげん細かなら役に立てんちゅう(笑い)ね、これは男の一番大事な処、こんなかじゃ役には立たん。そして目が覚めて高橋さんの思われた事ね、私の一番の大事な処、信心の一番大事な所と言えば心であろう。
その心がですあの人は細かい人だ、あの人は汚い人だと、人の好かん人だと言われる人、いかに自分の心が細いんだと言う事を、悟りました言うてお届けしております。まさしくその通りなのですね。私今日政昭先生の事を申しましたが、菊栄会の人達は皆細かいごとある感じが致しますね。言うならばです、いわゆるマイホーム的です。おかげのこつあいはとにかく知っています。もう先生を有頂天にする様な事なんかは、もうそれこそ本当に心得ておりますね。
けれどもね、ここに折角信心をさせて頂くならばです、その言うなら例えば素晴らしいものがね、合楽の教会内、教会長だけを対象にしたものではなくてです、それこそ「天が下に他人と言う事はなきことぞ」と言う様な、大変な御教えして頂いて、自分の周囲周辺にどのくらい難儀な人があるかね。その人達に取り次ぎ助けさして頂けれるところの力を頂くと言う事を、に焦点を置いたならばですね。とても寒中修行に、修行に参拝できなかったなんて事は言われんね。
自分達はどうやらこうやら腰掛けとるみてから、おかげに腰掛けとるね。けれども自分これだけれどもねこれが言うなら世界の、なら親先生が悲願を願っておられる。世界総氏子の助かりを願っておられる、しかもここでそういう和賀心になればですね、こういうおかげが受けれらるんだと言う、凄まじいまでのおかげを引っさげて、世界の市場に立とうと言う事なんだ。その総代である、なら合楽の菊栄会の人達がです。
先ずその様なおかげを頂かなければ、日本にもなからなければ世界の市場に出せんじゃないか。日本の位のおかげでね、どうして世界の市場なんて大きな事が言えれるかね。それはどうなら例えてどうと言う事はないけれども、とにかく自分のところの助かりがあるね、世界中の助かりに繋がっていくほどしのおかげに繋がっておるか否かと言う事をです、確かめていかなければいけない。
沢山の方達のお祈り沿えを頂いて、お祈り沿えのおかげそれから、佐田さん御一家の、それこそ熱烈な御信心、また「たきんご」さん御夫婦の、それこそ、もう親でなからなければ出せないほどしの力、を絞ってのこの寒中修行に取組まれてのおかげがです。皆さんもご承知のように、あの病人さんがあの4、5日前のもうこれが山場かと思われるほどしの言われるくらいマックスと言う所まで行ったんですね。もういよいよ行けないと言う所まで行ったね。
それこそ薬まで用意されるところまで行った、お父さんがその日を境にです、おかげを受けておられる、それこそ凄まじいまでの働きをです、ここ、5、6日毎日毎日本当に感激いっぱいでお届けになっておられます。今も佐田さん達のお届けを聞かして頂きましたらもうそれ以来はもう、もう眠り続けておる。日に一遍ぐらい起きますとお話が、どうにもあの平常である。鯛ども食べられたら暫く休む。今日なんかはお食事を頂いて、昼なんかは、夕方は何を頂くじゃろうかと言うてもう食べ物が楽しいぐらい。
今日の夕方は夕食を頂いた後に新聞なんか見てから、してまた休もうと思うてまた休まれる。この病気は休ませて頂いておると言えば言い訳なんですからね。と思うんです。その間に神様の、言わば様々なお働きを頂く事。そのところがねあまりにも、その深い眠りに入って行くもんですから、ちょっとちぃとばかりもう心配になられる。その事のお届けがありましたらね頂きます事がたかよ、ちょこちょこある「押し流す、潮に笑い泳ぎける。」「押し流す、潮に笑いおよぎける。」
それこそ凄まじいまでの、いわゆる流れの中にあると言う事ね。あのような病気がです、ここに押し流すほどしの力でおかげを下さっておるのですから、その中に笑い泳ぎけるというのは、佐田さん達じゃなかろうかとこうね、ここからでおかげを頂いたんだから心配いりませんよと言う事なんだね、泳ぎ、泳ぎの手を心得ておればどのように例えば渦巻く中にあっても、笑いながら泳ぎができておるね。「押し流す、潮に笑い泳ぎける。」それこそ押し流す潮ともうこれは凄まじいまでのと言う事なんですね。
それがその病人の家にですね、あのような経路を辿っておかげを、いわゆる寒修行が終わらして頂いて、寒修行の御礼のお届けがあったその日を境にあのようなおかげになって来たね。そして今日ただ今、まぁお届けをさして頂くようなおかげになって来たね。信心さして頂いて随分清まったようにもある、随分大きく豊かになったようにもあるけれども、神様の目からご覧になりますとです、高橋さんじゃないですけれども、小さい小さいお前が汚い、あるいは小さい人間だと言うてお者。
お前は以下なのだと言うておられる、指摘しておられる。私共はそのまま菊栄会に今日はあてはめてみた訳なんですね。そしてですいわゆる、私達は菊栄会だという一つの、何て言うんでしょうかね、エリート意識とでも申しますかね、一つのまあプライドを持つ事も有り難いですけれどもです、そういう物に何か寄り付けないものがある。そしてならその寄り付けないほどし素晴らしいかと言うと、そういう素晴らしい事ではないのだと。神様の目からご覧になるとそれこそ、計ってみたらこげん細かった。
これでは手は足らんのだと言う事ね。私共限りなく、自分自身という者を本気で見極めさして頂いてね。いよいよいわゆる政昭先生がそれは間違いないんでもです、これが本当だという真実を極めて行かして頂きおればですね、それこそ相手もお前何ちゅうかと言う様な所にあっても、相手が気の毒だなあと、思えたとこう言うのである。次にはもうかわいそうだなあと思えた言うのである。次にはその事を祈らなければおられないと言う事になったと、そういう素晴らしいものを頂きながら。
そういう素晴らしい祈りが、信心がです、もっと大きな意味合いにおいて祈れる事になった時にです、私は菊栄会はそんなもんだと思うんです。折角そのような素晴らしいものを頂いてお育て頂きよるんだから、それを只々外の建設の事であったり、合楽教会のためだけであったならばね、それはもうマイホーム的な信心に出してしまうんだとね、だからそういう素晴らしいものの菊栄会にしたいが持っておるならば、その事がです、菊栄会が本当におかげを頂くと言う事がね。
世界の一部を清めるというような自覚を持ってです、信心を進めていかなければいけない、ためには大きくならにゃあいかん。今日私はそこに大きなお祈りに行った、なんかこう大きな箱がお供えしてありました。たらこれは何ですかと言ったら、中は卵でございますとこう言う、卵が沢山お供えがあった時にはね、元気な心を出せっちゅう事、いや違う精を付けろと言う事なんですね。
だからどうぞ一つの卵がですね、成程今までね、今のままのおかげでよいならそれでよい。けどそれでは神様はお喜びにならない。ただ私共が喜ぶだけなんだね、神様のいわゆる大願に答えさして頂ける信心。それに私共がね、もちろん一段も二段も大きゅうなっていかなきゃなりませんね。そして世の中を言われます時にですね、「骨肉相食む」ばかりの言わば世の中にです。
私共が和賀心を頂いて、その和賀心による事が自分自身の助かり、家の助かりだけではなくてね、それがあかの他人の事でもね、それは黒いであろうがきないであろうが白い人種でからでもあるね、その事をね自分の言わば、肉親の者としてのような思いになれれるほどしの神心を高めて行く信心にならなけばいけない。高ければ良いと言うのではない、そういう心が(笑)、これから湧いてこなければいけないね、世界真の平和とか総氏子の助かりとか、これは朝晩唱えておる事ですけれどもね。
それが真実それが願えれる信心、おかげを頂かしてもらう。自分の趣味にそれこそ、「骨肉相食む」ようなね、難儀な中にある人達が、沢山あるね。そういう一つの世に、言うならば愛の手とでも申しましょうかね、神の手を差し伸べさして頂いてね、和賀心学を勉強しなさい、和賀心になればおういうおかげが頂かれます、どうぞ私を見て下さい、この様な凄まじいおかげを受けられると人に伝え話さして頂けるほどしのね、おかげを頂いて頂きたいと思うのでごさいます。
どうぞ。